川崎家は17世紀半ば頃から茨城県鹿島郡海老沢村(現:東茨城郡茨城町海老沢)で回漕問屋を営むかたわら郷士待遇で水戸藩に仕えていた。
川崎八右衛門守安(初代八右衛門、1834年・天保5年~1899年・明治32年)は青年期に水戸の儒学者・加倉井砂山に学び、「水戸藩鋳銭座取扱い役」、「警視庁御用金為替取扱方」などを経て、明治7年東京・日本橋に「川崎組」を興した。
明治13年「川崎組」は「川崎銀行」へと発展し、二代目川崎八右衛門によって国立第百銀行、川崎貯蓄銀行、東京貯蔵銀行等を合併、銀行名の変遷は有ったがグループは大きく発展して昭和初期には八大財閥の一角を占めるに至った。
グループ傘下には、常陽銀行、千葉合同銀行(千葉銀行の前身)、足利銀行、明和銀行、鎌倉銀行(共に横浜銀行の前身)日本信託銀行(三菱UFJ信託銀行に合併)、第百生命保険、日本火災海上保険(現:損保ジャパン日本興亜)などを抱えていた。
その後、昭和18年川崎銀行は三菱銀行に合併、金融財閥としての川崎の名前は消滅した。
合併時の預金量は三菱が5位、第百銀行(川崎銀行が行名変更)が7位、支店数においては三菱が50店舗、第百が98店舗であった。
川崎定徳(株)は昭和11年にグループの統制機関として発足した株式会社「定徳会」を前身として不動産の管理、賃貸を行っている。